
友人が5歳の娘ちゃんを連れて、我が家に遊びに来た。ふだん遠方に住んでいる友人母娘に会うのは、1年ぶり。うちの娘はもう中学生で、娘ちゃんをにこやかに迎えるが、娘ちゃんの方はしばらく人見知りをしてよそよそしくしている。これも毎回のお決まりだ。娘ちゃんは赤ちゃんのときから我が家に来ていたので、ふたりの付き合いも5年になる。30分もすれば遠慮もなくなる。
娘が小さかった頃のおもちゃは、もうほとんど家に残っていない。積み木も、おままごとの道具も、遊ばなくなるたびに少しずつ手放してきた。それでも、絵本はキャスター付き本棚に並んで、いまもリビングのクローゼットにしまってある。きれいなものだけではなくて、表紙の角が丸くなったものや、ページが破けたもの、綴じがゆるくなっているものも、絵本だけは全部取ってある。そこまでかさばるものではないし、毎日毎晩読んであげた思い出が詰まっていて、どうにも処分する気になれないのだ。
友人とわたしがダイニングテーブルで話に花を咲かせているのをよそに、友人の娘ちゃんと我が家の娘は、リビングで映画を観たり、クローゼットから引っ張り出した絵本を広げたりして過ごしていた。
しばらくすると、娘が絵本の読み聞かせをはじめた。文字を追う声は少し照れくさそうで、それでも、繰り返しの言葉になると調子がつき、ページをめくる前にはほんの少し間をおく。
友人が、その声を聞きながら言った。「あなたの声に似てきたね」。言われてみれば、似ているだろうか。わたしも中学生くらいの頃、家にかかってきた母宛の電話に出たら「おかあさんの声に似てるわね」と言われたことが何度かあった。母娘ってそういうものかもしれない。それはそうと、絵本を読む娘の、語尾を少し伸ばすところや、次のページを期待させるように言葉を切るところには、たしかにわたしが読んでいた頃の癖が混じっている気がする。「おしまい」のあとに友人の娘ちゃんに「もう1回!」と言われて少し早口になるあたりなんて、ものすごくわたしっぽい。
いまでは物語の細かな筋を忘れてしまった絵本も多い。それでもなお、言葉の並びや語感、繰り返しのリズムは覚えている。たとえば、そのとき読んであげていた『マイク・マリガンとスチームショベル』。娘が「メアリは、100にんのにんげんが」と読むのを聞けば、それに続く「1しゅうかんかかってほるくらい、1にちでほってしまう」がさらりとわたしの口をつく。
読むひとと読んでもらうひとが、同じ言葉の波に乗る。どこで笑い、どこで息をつき、どの一文を少し大きな声で読むのか。そうした小さな癖ごと、物語はだれかの記憶に渡っていく。
本棚に残っているのは、絵本そのものだけではないのだ。ページをめくる間や、何度も繰り返した言葉の調子。読んでもらった記憶と、読んであげた記憶。かつてわたしが読んだ声が、娘の声に少し混じり、いままた小さなひとへと渡っている。
※本文中で紹介している『マイク・マリガンとスチームショベル』は「えほんのおうち」でのお取り扱いはありません。あらかじめご了承くださいますようお願いいたします。