「ママは“ふくみみ”のみんなと、どうしてずっと仲良しでいられるの?」小学校生活の最後の1年を過ごしている娘に訊かれた。“ふくみみ”とは、大学時代の友人4人とのメッセージアプリのグループ名。大学1回生のときに知り合うきっかけとなった授業のN先生が、たいそう豊かな福耳だったことに由来する。授業中、ノートの切れ端に書いた“お手紙”にN先生の似顔絵(もちろん福耳をデフォルメ)を付けて回したりして、“ふくみみ”はわたしたちの共通言語に育っていった。卒業旅行の計画をたてるときに作った内輪のBBS(電子掲示板。ガラケーの時代でした)のタイトルも「Nのふくみみ」。卒業後5年以上が過ぎて、スマホ普及を経てメッセージアプリが登場したとき、自然とわたしたちのグループ名は「ふくみみ」になった。なぜだか「Nの」は抜けたけれど、わたしたちにとって福耳といえばN先生だ。これまでも、これからも。(ちなみにN先生とは、あの大学1回生の授業以来まったく親交はない)
娘が冒頭の質問を寄越してきたのは、小学校に上がってから保育園時代のお友だちと次第に疎遠になってしまった経験がベースにあるらしい。朝から夕方まで保育園であんなにたくさん遊んだ仲でも、小学校が離れたら、たまに会っても会話の糸口が見つからない。近所ですれ違っても手を振るだけ。どんどんよそよそしい関係に……を小学校卒業後にまた繰り返すと想像したらもうすでに悲しくなるし、“ふくみみ”が羨ましくなるのだそうだ。
“ふくみみ”の面々が顔を合わせるのは、今では年に1度あるかないか。メッセージのやりとりも、突発的に昔話や近況報告が始まって1日に何十通が飛び交うこともあれば、何週間と間が空くこともめずらしくない。毎日のように顔を合わせて同じ学び舎で過ごしたわたしたちだが、卒業後は当然ながら別々の道を歩み、現在地はバラバラだ。物理的な居住地も、暮らしぶりも。周囲の人間関係、直面している悩み、日々の愉しみや将来像、どれをとっても「へぇ、そうなんや」「なるほどねぇ」で、まるまる合致することはない。それでも、約20年が経過するなかで縁がプツリと途切れることなく、細々とでも連続した時間の流れを共有できてきたのは、「引っ越すの」「パートナーができたの」「別れたの」「生まれたの」などなどが引き起こす関係性の変化を「へぇ、そうなんや」「なるほどねぇ」でおおらかに受け入れてこられたからだろう。
時間の経過と、そこで生まれる変化。“ふくみみ”の関係性ってなんだかデニムの経年変化と似ていると、先日、ふと立ち寄ったお店でデニムスカートを手に取ったときに思った。パリッとハリのある生地感、オーソドックスなかたち、体型をひろい過ぎないライン。年齢を重ねても長く履けそうだなと眺めていたら、「それ、今わたしが着ているものと同じなんですよ」とスタッフの方が声をかけてくれた。目を向けると、たしかに。でも、質感が違う……気がする。いい意味で、くたっとして見える。「もう10年ほど着続けているので」。10年!? 聞けば、生地と縫製が丈夫なので、破けたり薄くなったりほつれたりしないらしい。スカートを触らせてもらうと、すごく柔らかい。たおやかだ。「10年間で生活も体型も少しずつ変化しましたが、年々からだに馴染んできている気がします。人生とともにこのスカートも育ってきたような」と言う。
連続した時間を、そこで生まれる変化をも取り込みながら、ともに過ごし続ける。人間関係はもちろん、お洋服も。そうやって関係性をはぐくむのって、素敵だなぁ。