「わたし、しばらく貝になろうと思うの」。そう話す友人は、キツネのようだった。イソップ寓話『酸っぱいブドウ』に出てくる、あのキツネ。高いところにたわわに実ったブドウを食べたくて、何度も何度も飛びつくのだけど、どうしてたって届かない。しまいに「どうせ酸っぱくておいしくないブドウに決まってるさ!」と言い残して立ち去るキツネの未練が、彼女に重なった。
仕事と家事と子育てと趣味。それらで100%構成されていたシングルマザーである彼女の生活に、少し前、趣味からのスピンオフで「彼氏」という要素があらたに(ひさびさに?)加わった。「正直、1日24時間しかないなかで、心をかき乱すものは少ない方がいい。それでずっと、恋愛は避けてきたのね。でも、彼とは穏やかに過ごせそうだから」と、ニコニコ話していたのが去年の暮れ。それから数ヶ月経ち、ひさしぶりのランチの席で飛び出したのが、冒頭の「貝になりたい」である。
聞けば、「会いたい」を彼に伝えるエネルギーが彼女のなかで底をついてしまっている様子。会える時間に制約が多いのは彼女の方なので、彼女からデートの日程を提案するのが常らしい。それがここ最近、立て続けに前日や当日になって彼の仕事や体調不良でキャンセルになったと。「しょうがない。理解はしているんだけどね。でも、さすがにこう何度も続くと、わたしばっかり誘っていることが堪えてしまって。“誘う”って、けっこう勇気を使う行為じゃない? 彼が次のデートを言い出すまで、わたしからは誘わない。貝になろうと思うの。彼なしでも十分に充実した毎日ではあるし」
ふむふむ、なるほど。「貝になることを、彼には伝えたの?」わたしはそこが気になった。彼女は性格上、波風を立てることを好まない。案の定、返事は「ううん、言ってない。それを言って話し合いとかをする気力がないのよ、いま。仕事は立て込んでるし、家に帰れば子どもは思春期だし」。うーん、そんなの、もしも彼が察しのわるいひとだったら、二人を待ち受けているのはいわゆる「すれ違い」じゃないの? 甘く穏やかな時間からは、かけ離れていくばかり。限られた時間で育んでいく妙齢どうしの恋愛に、無用なすれ違いはいらないよね。
わたしは、仕事が一山越えた彼女にプレゼントする予定だった紙袋をテーブルに置いて言った。「これ、ものすごく酸っぱいレモンジュース。ちょうどよかった。無農薬の国産レモンを皮ごと絞ってビタミンCとレモンポリフェノールがいっぱい入っているから、お水で割ってコップ一杯飲んだら、元気が湧いてくるはず。気持ちを伝えないのはこじれるだけだよ。貝になるならなるって宣言した方がいいよ」
ランチの数日後。スマホを覗くと、「貝化宣言したら、すぐ終了した」から始まる彼女のメッセージが数件届いていた。ん? んん? 意味をつかめず画面を開くと、コップを乾杯する男女の手元の写真と「ありがとう」の文字。うわぁ、甘い空気感の写真。そういうことか! 会ったのね。おめでとうと送ると、ほどなくして「レモンジュースのおかげだよ」と返ってきた。コップの中身はレモンジュースらしい。レモンジュースのあまりの酸っぱさに彼氏が顔をしかめていたこと、でも彼女はその酸っぱさがクセになっていることも添えられていた。
よかったよかった。これからも恋心が挫けて『酸っぱいブドウ』のキツネになりかけたら、酸っぱいレモンジュースでエネルギーチャージしてね。キツネはあきらめちゃったけど、あのブドウ、ほんとうは甘かったと思うのよ。