そのひとの家は心地がよくて、おじゃまするとつい長居してしまう。まちの喧騒からほど近い、いわゆる単身者用のマンション。西向きで陽あたりに恵まれているわけでもない。けれども、ワンルームのわりに少し広めの室内は、いつ訪れても空気が澄んでいる。『風の谷のナウシカ』に出てくる、お城のナウシカの部屋から続く秘密の部屋のような。モノが少なくスペースにゆとりが溢れているのと、「もはや趣味の域」と語る掃除が行き届いているせいだろう。「いらっしゃい」と迎えられてソファーに腰掛けると、わたしはお決まりのように深呼吸をする。目の前にある杉の一枚板のローテーブルがマイナスイオンを発しているような気がして、この空間の清浄さをからだに取り込みたくなるのだ。
鼻から息をすって、すって、口からはいて、はいて、はいて、はいて。深呼吸は「すう」と「はく」を1対2のリズムで繰り返すと、自律神経の安定につながりやすいらしい。以前、テレビで著名な先生が言っていた。たしかにその方式でやってみると、意識が呼吸に向かうからか、束の間、雑念が遠のく。たかが束の間、されど束の間。頭に居着いていた雑念がはがれて、心が軽やかになる。
「枯らしてしまうと悲しいから」と、その家には観葉植物の類は置かれていない。代わり(?)に、部屋の真ん中にローテーブルの天板として、杉の無垢板がどーんと鎮座している。「いつまで続くかわからない一人暮らしで、家具も間に合わせでかまわなかったんだけど、でもやっぱり家のなかに“いのち”を感じるものがほしかった」そうだ。「木は呼吸しているっていうでしょ。この杉の樹齢はわからないけど、きっと手が届かないくらい人生の大先輩。こんなに風格ある先輩と同じ空気を吸っていると思うと、背筋が伸びる。ぞんざいに暮らしてたらあかんなって」
暮らしを正してくれる存在って、いいな。先日、秋田杉の「おひつ」に出会った。緻密な幅で幾重もの年輪が刻まれた杉の木。その白木でつくられた「おひつ」は、簡素で、素朴で、とても美しかった。素材の上質さと職人技を感じずにはいられない。もし我が家に迎えることができたら、台所が一気に静謐な空間にランクアップしそう。ていねいに仕立てられた「おひつ」にふさわしい台所しごと――時計とにらめっこしながら浅い呼吸でバタバタとやってのけるのではなく、ごはんをよそうなら「よそう」という動作に意識を向ける、そんな瞑想に近い心持ちで一つひとつの手順を踏んでいきたいと思った。
白木の「おひつ」に入れたごはんは、時間が経ってもふっくらおいしいという。無塗装ゆえに木が適度にごはんの水分を吸い、また上手に水分を放出してくれて、ごはんの水分がほどよく保たれやすいのだそう。まさに“呼吸している”ようではないか。