先日、夫と日帰りで温泉旅館に行ってきた。何種類ものお風呂をたのしめる大浴場は入り放題、野菜たっぷりの御膳ランチにはビールを付けて、あいまは客室でのんびりおしゃべり。7時間滞在できると聞いていたから本を2冊持って行ったけれど、結局読んだのは10ページほど。食後にほろ酔いでまどろんでいたせいもあって、あっという間に時間が過ぎた。
夫とこんなに長い時間を共有したのはひさびさだった。 一つ屋根の下で暮らしてはいるけれど、彼は1時就寝の夜型、わたしは4時起きの朝型で、生活リズムはすれ違い傾向にある。週末の余暇も、ハリウッドのアクション映画でスカッとするのが好きな彼に対して、わたしはどちらかというと、伊坂幸太郎や森見登美彦の小説でクスリと笑いたい派だ。
江國香織が昔、エッセイ『いくつもの週末』のなかで「私と夫は好きな音楽も好きな食べ物も、好きな映画も好きな本も好きな遊び方も全然ちがう。全然ちがってかまわない、と思ってきたし、ちがう方が健全だとも思っているのだけれど、それでもときどき、一緒ならよかったのに、と思う。なにもかも一緒ならよかったのに」と語っていたのを思い出す。10代の多感な時期に触れたこの一節は、父と母、祖父と祖母の姿とも重なって、わたしのパートナー観の基盤になっている気がする。
ときどき、一緒。そう、ときどきでいい。ときどき「一緒」を味わう。温泉とランチを堪能したあと、ふだんは「昼寝なんて時間の無駄遣い」と切り捨てる夫と、おのおの大の字になって陽を浴びながら目をつむり、しばしウトウトしたのちに起き上がってお茶をすすった。お茶菓子のクッキーを「さっきまであんなにお腹いっぱいやったのに、なんで食べれてしまうんやろ」なんて言いながら。
夫がたのしそう。わたしもたのしい。満足感? 充実感? 安心感? 夫とわたしの「たのしい」の波長の重なりをひとつの言葉で表現するのはむずかしいけれど、「一緒」には、はっきりとした手ごたえをもつ何かがある。
「一緒」といえば、最近お店で見かけた犬用の「チキンのおかゆごはん」や「おさかなのブイヤベース」。メニュー名だけ聞けば、人間の食事のそれだ。めちゃくちゃたやすく、味を想像できる。なんなら食欲がわく。
わたしは犬を飼ったことがなく、粒状のドライフードのイメージしかなかったから「犬って人間と同じごはんを食べられるの…?」と思ってしまったけれど、材料や分量などに気を配れば可能なのだそうだ。愛犬家の友人も「たまに手づくりのおやつをあげたりもするよ。わたしもつまみ食いしちゃう。人間のよりもだいぶ薄味だけど、おいしい」と言う。
自分がおいしいと感じたものを、愛犬もおいしそうに食べている。その「一緒」もまた、しあわせなんだろうな。