もう2年近く、わが家の戸棚には、新聞紙にくるまれてしまい込まれた、割れた湯呑みがあった。ずいぶん昔、家族で信楽陶器祭りに出かけた際に買ったもの。高価なものでは全然ないけれど、あまり見かけない形と質感が気に入って、ずっと愛用していたのだ。ある日、手をすべらせ落としてしまったのだけれど、その割れた湯呑みは捨てられずにずっと置いてあった。家族で行った小旅行の思い出と紐づいているせいもあるけれど、もうひとつ「いつか金継ぎしたいな」という思いが胸のうちにあったからだ。
割れたもの、欠けたものにひと手間加えて、そこに生まれる「景色」を愛でるという金継ぎ。そこには、ものの命をいつくしむ日本的美意識が感じられて、ずっと憧れていたのだ。
ただ、わたしの湯呑みの場合、何万円も払って金継ぎ職人に依頼するほどのシロモノではない。かといって最近人気の「金継ぎキット」のような製品は、わたしのような未経験者に使いこなせるのかちと不安が残る。どうしたもんかな、と思いながら、割れた湯呑みを眠らせたままにしていたのだ。
だから、通い慣れた百貨店のうつわ売り場で、金継ぎのレッスンが受けられると知った時は、まさに「渡りに船」だった。教わるのは、漆を使う本金継ぎではなく、素人でも扱いやすい合成樹脂を使う「現代金継ぎ」。ワークショップ当日、緊張して作業台に向かうわたしに、講師の先生が「この金継ぎには “失敗”は存在しないから安心してください。それに修復に向き合う時間って、メディテーションみたいなんですよ」と声をかけてくださった。
教わるままに作業を進めていくうちに、先生の言葉の意味するところがわかってきた。まるでお習字前に墨を擦るように、2種類の樹脂をしっかり時間をかけて練る。そして心を落ち着けて、破片を接着していく。欠けはよく練ったパテで埋め、乾くのを待ってから水で濡らした紙やすりでひたすらこすって、凹凸をなめらかにする。そうやってただただ目の前の作業に集中していると、なんだか無心になれるのだ。
割れや欠けを修復して下地ができたら、いよいよお待ちかねの作業。真鍮粉を混ぜた塗料を筆に含ませ、「継ぎ」の痕を金で覆っていく。手が震えて線がいびつになるけれど、先生は「いいですよ、それも味のうち」とにっこり。そうか、最初におっしゃっていた「“失敗”は存在しない」って、そういうことなんだ。傷も、つたなさも、ぜんぶ味になる。こうして、わたしの初めての金継ぎは2時間半ほどで完成した。
ずいぶん昔、ある人が「創という字には、傷という意味もあるのよ」と教えてくれたことを思い出した。言われてみればたしかに、ケガをした場所につける「絆創膏」にも創の字が入っている。新しい美の創造は、あんがい傷から始まるってことなんだろうか。そう思うと、つまづいたり転んだりしながら生きている自分の人生も、ありのまま受け入れればいいんだという気持ちになる。その日金継ぎをした湯呑みは、いま、毎朝起き抜けに飲む白湯専用になっている。1日の始まりのひととき、自分で塗ったいびつな線を眺めながら「なかなかいいじゃない」なんて悦に入って過ごす。そうやって「今日も1日がんばろうね」と自分に声をかけるのだ。