生粋の関西人なので、ドラマや映画などで、不自然なイントネーションの関西弁で話す役者さんがいると、どうも気になってしまう。一方で、方言のイントネーション再現がすごくうまい役者さんもいて、そういう人を見ていると、「ああ、きっと耳がいいんだなあ」と思う。
最近見たドラマでも、そんな女優さんがいた。演技のすばらしさに加えて、劇中で話されている関西弁がものすごくナチュラル。東京生まれ東京育ちだという彼女がなぜ?と思ったけれど、両親がミュージシャンであると知って、「なるほど」と腑に落ちた気がした。そう、彼女もまた「耳がいい人」、つまりすぐれた音感の持ち主なのだろう。
さまざまな音の高低や音色を聴き分ける能力、「音感」。それは結局、記憶の蓄積なのだという。幼い頃からさまざまな音に耳を澄ませ、その響きを味わい、からだに沁み込ませる。そんな経験が、子どもたちの音感を豊かにしてゆく。
ここで思い出すのは、かの名作映画「サウンド・オブ・ミュージック」。トラップ家の7人の子どもたちは、幼くして母を亡くしたあと、厳格な父のもとで、歌ったり遊んだりすることから遠ざけられて暮らしていた。そこに、太陽のように明るい女性マリアが家庭教師としてあらわれる。「どんな歌も知らない、歌い方もわからない」という子どもたちに、マリアが教えるのが、自作の「ドレミの歌」。彼女の声をなぞるように、子どもたちの声は、たちまち正確な音階を響かせていく。歌えない子などいない。
ドラマが進むにつれて、それまで一見冷徹に見えていた父親・大佐ゲオルグも、かつては亡き妻とともに音楽を愛し楽しむ人であったことがわかってくる。ああ、だからなんだ、子どもたちがあんなふうに歌えたのは、とわたしたちは気づく。子守唄を口ずさむ父母のやさしい声と、肌のぬくもり。同じ音を聞いて親子で笑い合った日のこと。そのしあわせな音の記憶は、子どもたちの中にちゃんと息づいていたのだ。
わたしたちの人生を豊かにしてくれる、音の記憶。音楽にふれるときも、外国語を学ぶときも、それはきっと役に立ってくれる。だから幼い子たちにはできるだけ、いい音に触れる機会を贈りたいと思う。
さて、もうすぐ1歳を迎える姪っ子にも、何かいいものはないかな。うーんと頭をひねるわたしに、先輩がすすめてくれたのが、ボーネルンドの木琴。魚をかたどったかわいらしい見た目に反して、おもちゃとしてではなく、ちゃんと楽器専門の職人の手でつくられていて、正確な音階を奏でられるのが魅力。
小さな手に握られたバチが鍵盤を叩くと、ポロロンと心地いい音色が響く。姪っ子はパッと顔をかがやかせ、わたしの顔を見あげて笑う。そんな風景を思い浮かべながら、リボンをかけてもらった箱を受け取るわたし。うーん、早く会いに行きたいな。今度会えたら……、そうだ、この木琴で「ドレミの歌」を叩いてみせてあげるんだ。わたしは頭の中で「ドレミの歌」の音階をそらんじながら、帰路についた。