以前、京都のある小料理屋さんを訪れた時のこと。そこは気のいい大将がひとりで切り盛りする、小ぢんまりとくつろげるお店。日本酒を頼むと、よく冷えた吟醸酒が、青々とした竹筒の酒器で出てきた。聞くと、その日の朝、大将が山に入って手ずから伐ってきた竹だという。目にもみずみずしく爽やかなおもてなしのおかげか、その日はいつもよりお酒がすすんで、すっかりごきげんになったわたしたちだった。
そして帰りぎわ、「これも今日つくったもんやけど、差し上げますわ」と大将が手渡してくれたのは、竹筒に丸窓をあけただけのシンプルな花器。いけばなの心得などないわたしだけれど、それでも花や枝ものを2~3本、さっと投げ入れるだけで絵になる。いつもの部屋に、凛とした野の風情を運んでくれるようで、「いいねえ!」とひとり悦に入っていた。
考えてみれば、日本最古の物語「竹取物語」にも描かれているように、わたしたち日本人は、よろずのことに竹を生かしてきた。筒のまま使ってよし、ひごに割って編んでもよし。竹皮もまた、ちまきを蒸したり、おむすびを包んだりするのに使えて、まさに捨てるところがない活躍ぶりだったのだ。箸、筆、竿、笛、笊(ざる)、籠(かご)といった生活必需品が、竹かんむりのつく字であらわされているのを見ても、わたしたちとの関わりの深さが感じられる。
時代が流れ、ステンレスやプラスチック製品の台頭に押されて、昔に比べると、竹の道具の出番は少なくなったかに見える。それでも結局、自然素材の味わいや、手仕事のぬくもりを求める気持ちが、わたしたちの中から消えることはないみたいだ。おしゃれな雑貨店で、昔ながらの竹製のかごや台所用品が根強い人気を保っているのは、そんな気持ちのあらわれだと思う。
一方、わたしたちの知らないところで、大胆な進化を遂げていた竹の道具もある。それが「リヴェレット」の食器。生命力の強い孟宗竹を活かし、職人たちの技で、現代風なスタイリッシュデザインに仕上げている。
軽くて落としても割れにくいし、あつあつの飲みものを入れても、その熱をやわらかく遮断してくれるから、手元の不安定な子どもやお年寄りも安心。竹製でありながら食洗機にかけられる点も見逃せない。古き良き竹の道具とはまったく違う新種の登場、という感じだ。それに、切っても切っても生えてくる竹は、サステナブル素材の元祖的存在。今の時代が求める価値が、こんな身近なものの中にあったのだ。
朝、「リヴェレット」のマグカップで、淹れたてのカフェオレを口に運ぶ。コーヒーの湯気とともに手や唇に伝わる、すべすべとしたやわらかな触感。わたしはほうっとため息を漏らす。竹取の人々よ、昔も今もありがとう。古き良き竹工品でも、新種の竹工品でも、長く愛せる道具があれば、それだけで毎日は楽しい。