「ようやく自由の身、だなあ」。65歳の誕生日を迎え、まもなく退職の日を迎えようとしている父が、ボソリと言った。振り返れば40余年、仕事に明け暮れてきた父。今その胸によぎるのは、安堵なのか、達成感なのか、寂しさなのか、わたしには伺い知ることはできないけれど、とにかく「おつかれさま」だ。何か記念になるものをプレゼントしなくちゃね、なんて母とおしゃべりしながら、わたしは父の歩んできた日々に思いを巡らせる。
父にとって、趣味といえば、たまに出かける低山ハイクと、歴史小説を読むこと。とくに小説の方は、毎週のように新しい文庫本を仕入れては、通勤のお供にしていた。司馬遼太郎や津本陽、山本周五郎、山岡荘八。昔のわたしなら、父の本棚にずらりと並んだラインナップに、まったく食指が動かなかったものだけれど、それなりに人生経験を積んだ今では、その面白みがちょっとずつわかるようになってきた。
父がとくに惹かれるのは、幕末らしい。社会の大転換期を生き、自分の信じた道にしたがって、時代の歯車を回してきた先人たち。カリスマ的リーダーがいれば、二番手で力を発揮する最強マネージャータイプもいるし、熱血漢の斬り込み隊長もいる。そんな人間模様は、父にとって、組織の中で働く日々のケーススタディにもなっていたのかもしれない。
そんなことを考えていた矢先、百貨店の売り場を歩いていたら、クリスタルの輝きとともに「薩摩」の文字が目に飛び込んできた。手に取ったのは、薩摩切子のオールドグラス。話を聞いてみると、このガラス工芸が生まれるきっかけをつくったのは、幕末の四賢侯のひとりである薩摩藩主・島津斉彬だという。西郷隆盛を見出した、あの大名だ。「あ、お父さんに教えたい」。そう思わずにはいられなかった。
斉彬は、薩摩の未来を見据えて、どこよりも早く西洋式工場群「集成館」を創設し、造船、製鉄、紡績など数々の事業を行った先見の明の持ち主。薩摩切子の製造もそんな取り組みのひとつであり、斉彬はこれを世界に輸出して、藩の財源にしようと考えた。実際に海外での評価は高く、世界最高峰のベネチアンガラスにも肩を並べるほどだったとか。
斉彬亡きあと、薩摩切子の製造はいったん途絶えてしまったものの、1980年代に入ってから、島津家末裔の人々やガラス職人たちの尽力により復活を遂げる。古い文献をひもとき、先人たちの足跡をたどるという粘り強い作業。そのおかげで、幻となっていた輝きが、100年以上の時を経て甦ったのだと思うと、なんだか胸が熱くなる。
透明ガラスの上に、ブルーとグリーンの色ガラスが層をなして醸し出す、こころよい厚みと重み。繊細にほどこされたカットから、やわらかく滲みだすような色のグラデーション。じっと見つめていると、脳裏にはありし日の薩摩人たちの姿が浮かんでくるような気がする。
ね、お父さん。これで薩摩の芋焼酎でも飲みながら、歴史小説を読むなんて、最高じゃない?ひとつのグラスと一冊の本が、まるでタイムマシンのように遠い昔と今をつないでくれる。いつかわたしもその旅、お供させてね。