若い頃、とくにまだ子どもたちが小さかった頃は、食後の洗いものが嫌いだった。仕事でくたびれた頭と体に鞭打ってごはんをつくり、ようやく食卓につけば、やれお味噌汁をひっくり返しただのなんだのでひと騒ぎ。そんなわけで食べ終わってホッとしても、まだ後片づけが待っていると思うと「あーあ」とため息をつきたい気持ちになった。だから食洗機がわが家に登場した時は、これぞ私の救世主!と思ったものだ。
あれから歳月が経った今。後片付けの時間が苦手どころか、むしろ好きになっている自分に気づいて、ちょっと驚いている。昔に比べて心の余裕ができたことが一番の理由だけれど、食器棚の中身が変わってきたことも大きい。かつては食洗機にかけやすい器中心だったのが、数年前から少しずつ好きなうつわを買い集めるようになったのだ。作家ものの焼きものとか、古代朱の漆のお椀とか。それゆえ食洗機は卒業し、ひとつひとつ手洗いする毎日だ。
とくに漆のお椀は、買った時にはややマットな光沢を帯びていたのだけれど、食事のたびに汁物を盛っては、洗ってふきんで拭きあげて、を繰り返しているうちに、内側からぽうっと光を放つような、つやつやとした照り感に変わってきた。使い込まれるほどに、美しく育っていく手ごたえ。これは自然素材だけが持つ魅力だ。その美しさに触れ、撫でさすって愛でるひとときは、年齢を重ねた今だからこそ味わえるご褒美のようでもあって、私は夜の台所でひとり、しめしめとほくそ笑む。
そんな私が、いつかは欲しいと思っていたのが、秋田杉の曲げわっぱ。ちょうど春を迎えて娘が進学するタイミングでもあり、母娘で曲げわっぱ生活を始めるなら今だ!という思いで、お弁当箱を手に入れた。ほのかにいい香りがする杉は、木目も冴え冴えとして思わずうっとりする。聞けば、冬の厳しい寒さに耐えて育つ秋田杉は、年輪が細かくぎゅっと詰まっているのが特徴だとか。さらに、この曲げわっぱに使われているのは樹齢100年を超す秋田杉だと知って、胸がキュンとした。
年輪は、木が生きてきた歳月の記憶。そして線の色が濃いところは冬を越したしるしだ。ネイティブアメリカンは「何歳になったか?」と尋ねるとき、「冬をいくつ数えたか?」と言うのだと、ある本で読んだことがある。冬の静かな黙考のときが人生を豊かにするのだ、とも綴られていた。この端正な曲げわっぱを手にすると、たしかに「時間だけがつくれる美しさがあるのだ」と思わずにいられない。
うつわがいいと料理も盛り映えがするもので、昔は苦行でしかなかったお弁当づくりも、今ではモチベーションが断然アップ。お弁当を詰めている時も、食べている時も、むふふと笑いがこぼれてしまうのだけれど、私にとっていちばん心楽しいのは、夜に洗って片づける時だ。水に濡れてしっとりとしたつやを放つ木肌に胸をときめかせ、乾いたふきんでまるで赤ちゃんの頬をぬぐうようにやさしく拭きあげる。10年も経てば、色合いもこっくりとした飴色に変わっているだろう。私の中にも、それと同じだけの時間が年輪として刻まれてゆく。よぉし、背筋を伸ばして、ちゃんと生きなくちゃね。曲げわっぱを眺めながら、そんなことを思う。