人生は旅だという。人は旅人だともいう。ホントにそうだと思う。人生が先か、旅が先か。それは鶏が先か卵が先かの論争のようなものかしら。人が日々粛々と生きていくから人生があると言えるし、人生というものがあるから旅のようなドラマが生まれるのかもしれない。
たとえば、子どものころからいままでの道のりを思い出してみよう。わたしの道のりは、平坦な道のりだっただろうか。と、じぶんに問うてみる。こころの声が『そんなに真っ直ぐではなかったように思うよ』と、答える。けっこう、足腰どころか心臓や肝っ玉が鍛錬される凸凹道を歩いている時期もあった。予期もしていなかったのに、トツゼン、ジェットコースターのように運命が急転直下した時期もあった。人生なんか、だれしも、多少はそんな感じじゃないかしら。ホント、誰かの歌じゃないけれど、人生いろいろ~♩だ。
人それぞれ、いろんな人生があると思う。だから、旅に例えたくなる気持ちはよくわかる。旅の醍醐味は目的地へ行って感動すること。そこでは、予期すらしなかったできごとに出会ったり。まさかと思うような出会いがあったり。まったく想像すらしていなかった風景に出会ったり。その意外性というか“ドラマ性”に旅の感動や達成感があるのではないかしら。そういう意味では人生も同じだ。目標を決めて努力を重ねて、ようやく夢が実現したときの達成感は何者にも変え難い。そのとき味わう一杯の酒はまさに甘露のひと言だろう。
そんな人生を歩む人間、つまり人そのものを旅人と言い表すことに異論はない。まさに、人は一生、じぶんという旅を続ける存在ではないだろうか。行き先やゴールはじぶんで決めれば良い。気ままに風まかせでも良い。いや、どこにも出かけなくても、空想で旅はできる。それもまた、良いではないですか。空想の赴くまま、今日はどこへ途中下車しようかしら。明日はどこへ向かおうかしら。ある意味、実際のリアルな旅よりも自由気ままで荒唐無稽な旅も可能だ。リアルも良いがイマジネーションの旅。そっちも捨て難いかもしれない。
リアルの旅か、イマジネーションの旅か。その結論は、それぞれで決めればよろしい。さ、旅に出よう。どこへ行く?何を持っていく?何はなくても、必要なのはカバンだ。ここはキャリーケースだろう。本を持って行くにも、カメラを持って行くにも、スケッチブックを持って行くにも、パソコンを持って行くにも、ジャケットやシューズを持って行くにも、キャリーケースだ。江戸時代の旅人のように振分荷物というわけにはいかない。
さて、キャリーケースを選ぼう。まずは、そこからだ。キャリーケースを選ぶところから、わたしという旅をはじめようじゃないか。行き先は、キャリーケースが転がる方でいいじゃないか。旅はキャリーケース任せ。それも、また良いではないですか!
ほら、こんなキャリーケースが部屋に鎮座しているとしますよね。こいつを眺めていれば、ムズムズしてきて旅に出てしまうだろう。空想の旅なら、予約不要。チケット不要。目をつぶって瞑想すれば、いますぐに旅立てますよ。(もちろん、リアルも捨てがたい!)
ヴォン・ヴォヤージュ!