贅沢の“贅”は贅を尽くすの“贅”である。“贅”には余計なものを付け加える、役に立たない余計なものという意味がある。「贅言(ぜいげん)」とは余計なことば、余計なことをいうという意味である。さらに、“贅”には元来あるものではない、余計なもの、無駄という意味がある。「贅肉」などというのは、まさにそういうことだろう。
かたや「沢」にはうるおう、たくさんあるなどの意味がある。「潤沢」という言葉はまさにそのさまを言い表している。「豊かにうるおい、あり余るほどある」さまということだ。
はて?
ここで、素朴な疑問が頭をもたげた。贅沢とは余計なものがたくさんあるってこと?贅沢をするって、余計なものをたくさん持つような生活をするってこと??たしかに、贅沢をするというのは、モノをたくさん持っているイメージがある。でも、余計なものや無駄なものをたくさん持っているようなことなのか?それって、ややもすると悪趣味とも金ピカ趣味とも言えそうな、そんなことなのかなあ。なんだか、それは違うような。
「贅沢」それも「本当の贅沢」とは趣味やセンスだけでなく、そのひとの人望や人間性までもひっくるめて、有り余るほどの“ゆとり”、それも趣味の良いゆとりを醸し出してないと、嫌味に見えるだけなのだろう。そして、ひいてはお金の使い方を問われるものだろう。
と、散々前置きを言ったところで、わたしの持ち物の中でいちばんの贅沢品はなんだろう。「本当の贅沢」と言える持ち物はなんだろうと、考えてみた。だが、これは考えるまでもなく一択だ。「シルクのパジャマ」だ。それも、潔いほど真っ白いシルクパジャマだ。色はない、柄もない。外連もない。気を衒わない。その潔癖さが良いのだ。
これ見よがしに高級そうな色であったり柄物であったりを「潔し」としない、「貴し」としない。何も足さないものだから、却って着るわたしを贅沢な気分にしてくれる。“内に秘めた贅沢心”とでも呼ぼうか。こころの内側からわたしの気分を高めてくれるのだ。これは、決して虚栄心などではない。白いシルクのパジャマを愛用していることをひとに公言するようなことはない。わたしだけが知っていることだ。それが良いのだ。どんなに疲れて帰っても、必ず風呂に入り、この白いシルクのパジャマに着替える。それだけで、わたしの1日は充実したハッピーエンドを迎える。わたしという1日の舞台は、この衣装で幕を閉じるのだ。
昼寝でさえ、このパジャマに着替えると、まったく別のものになる。Tシャツのままゴロリと横になるのではなく、シャワーを浴びて余計な気持ちを洗い清め、お気に入りのオーデコロンをシュッとひと吹き。このパジャマに着替えて眠るのだ。それだけで、怠惰な昼下がりの眠りは、贅沢な白昼の夢となるのだ。昼寝から目覚めたわたしの気分は、シルクの手ざわりのようにサラサラツルツルになる。これをリフレッシュ&リラックスと呼ばずして、なんと呼ぶのだ。
明日からは出張。ホテルに備え付けのパジャマで済ませても良いが、この白いシルクのパジャマを持って行こう。昼間の緊張感をときほぐすには、マッサージチェアよりもこの一着だ。
どうやら、わたしは本当の贅沢を知ってしまったらしい。